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今夏は久しぶりに甲子園をちょくちょく見た。駒大苫小牧の誇る「北の怪物」(というか、マジメな時の顔は大仏だなあ)田中と大阪桐蔭のスーパー2年生中田見たさゆえのことから始まったのだけれど、こんなに見たのは松坂イヤーの98年以来のこと。
とはいえ、クソ暑い真夏の炎天下で無謀に近い連戦を強いる甲子園というシステム自体は、子供の頃から嫌いだった。今年はその意味で、松坂イヤーにも増して、改めて甲子園の理不尽を痛感させる大会だった。体調不良を押して投げ続けた駒大苫小牧の田中も大概だが、早実・斎藤の酷使ぶりは目を覆うばかりのものがあった。松坂は250球を投じたPLとの伝説的死闘に続く明徳義塾との準決勝は外野スタート、9回にリリーフしただけだったからまだマシだったと思えるほど。斎藤は延長戦となった日大三高との西東京大会決勝からして、投球数ぬわんと221(!)。甲子園でも結局すべてのアウトカウントは彼が取ったわけで、実質的に全試合で完投、甲子園のみの総投球数は実に1000近く。ブラウンが来る以前の前時代的な広島キャンプですらこんなに投げさせんわ。しかも金属バットで打球が速く、ボールが飛ぶせいかHR連発の大会とあって、投手の負担はただでさえ並大抵ではない。その中でのこの投球数は、はっきり自殺行為以外の何物でもあるまいよ。それに対し、マスコミは一様に斎藤と早実ナインの奮闘を讃えるのみ。主催者たる朝日新聞はじめ、真夏の炎天下に高校生を晒し続け、野球を職業としている人々ですら決してすることのない投球数を強いる、この常軌を逸したシステムに苦言を呈す声がほとんど聞こえてこない。 そもそも高校野球なんてのは高校の部活動の延長線上に過ぎない。それをメディアイヴェントとしてクローズアップし、人体生理学的に見て自殺行為に近い行為の後押しをしてきたこと自体に大きな問題があるのは、火を見るよりも明らかなこと。なにせ、一番大切なのは出場する選手たちの躯と健康である、という当たり前の大前提が甲子園には欠落しており、あるのは運営側の論理ばかり。その手前勝手なシステムに高校生たちを巻き込む構図は、パイロット一人を養成するのにどれだけのカネと手間がかかるかを全く考慮に入れない特攻と、無駄死に過ぎない玉砕とを無理強いした軍国主義の双子。斎藤や田中の奮戦ぶりを賞賛するに吝かではないけれど、そうした場で生み出されたドラマを端から感動物語に仕上げて称揚する構図にもまた、おぞましいものが潜んでいやしないか? 現状では勝ち抜いてゆく高校の主戦級投手に人間の能力の限界を遙かに超えた負荷がかかるが、負担軽減はやろうと思えば出来ることだ。まず第一に、試合間隔を開けること。選手や応援団の滞在費が苦しくて無理と言うなら、大阪と神戸はじめとする周辺球場を併用し、試合消化を大幅に早め、休養日を設ければ済むことだ。ウィンブルドンのセンターコートと同じで、準決勝以上は洩れなく甲子園、という具合にすれば、タイガースが死のロードで毎年苦労することもあるまいよ。 そしてまた、決勝再試合で斎藤を先発させることを躊躇ったものの結局のところ先発・完投させた早実の監督と、疲労を否定した本人のコメントとが示しているように、監督および選手の自制心にはまるで期待できないのだから、WBCのように、ルールとしての球数制限を導入するべきだ。高校野球は、まるで金田、稲尾や杉浦、権藤の時代のまま、奇跡の4連投だの権藤権藤雨権藤な時代が未だに続いている度し難いアナクロ。骨格が発達中の高校生には1試合あたり100球でも多いのではなかろうか? 球数制限すれば投手の数が足りない、と言うのなら、いっそ都道府県大会までを各高校単位での試合とし、甲子園は各ブロックで優秀な成績を収めた選手たちで構成される選抜チームの大会にしちゃえばいい。そうすればプロ野球並の継投による分業制も可能になるだろう。わざわざ高校単位で全国大会を争うことには、高校の生徒獲得を目的とした宣伝以外、なんら合理的理由はないのだから。 それもこれも、選手たちの可能性を一夏で潰し、その後の人生を踏みにじる愚をもう繰り返さないためだ。高校生離れしたインサイドワークを中心としたクレバーな投球術とそれを支える制球力に頭抜けたものがあった斎藤、あるいは本調子とは程遠いながらも、いかにもプロ向きなメンタルの図太さと切れ味鋭いスライダーを誇った田中の野球人生が、甲子園での酷使が原因で一時の輝きに終わってしまうようなことがあれば、これは彼らのためにもならないどころか、日本野球界の大損失だ。今や日本球界を代表する大エースに成長した松坂のような桁外れの化け物ならば別かもしれないが、誰もが松坂並の人間離れした頑丈さを持っているという保証なぞない(松坂ですら、プロ入り時にはその将来を危ぶむ声は多くあった)し、松坂とて今後勤続疲労に襲われる可能性を否定はできない。となれば悲劇を招く可能性を摘み取るべく抜かりなく手を打つこと、これが「大人」で構成された大会運営者たちに第一に求められることではないのか? なにせ改めて振り返るまでもなく、甲子園はウンザリするほど過ちを積み重ねて来た。その典型例の一人が、リトルで世界大会まで行って投げまくり、高校でも1年からエースを張って、相次ぐ無茶投げの挙げ句にプロ入りし、結局は故障連発でさしたる成績を挙げられないまま選手生命を終えた斎藤の先輩、荒木大輔。そして荒木を斎藤と重ね合わせると余計に暗澹たる気分になる。下のグラスの本ではないけれど、早実関係者も甲子園の運営者も、誰一人として先人の苦い轍から学ぼうとはしていない。投げすぎでキャリアを縮めた荒木は決勝再試合の前に斎藤の躯を気遣い、「出来れば雨が降ってくれれば」とコメントしたが、これは故障との果てしない闘いだった現役時代を過ごした彼の言葉ゆえの重さがある。 甲子園の問題は他にもいろいろとあろう。時代遅れな高校生観や坊主頭の強要、アマチュアリズムやスポーツマンシップの取り違え(たとえば秋田大会準決勝の秋田×本荘戦。この試合にはサスペンデッドの珍妙なルールも絡んでいる)、理不尽極まりない連帯責任の思想と、それによって影で頻発する心ない密告等々。このあたりは今後の課題としても、高校生たちの躯を気遣う発想は、もう待ったなしで早急に導入すべき事項だ。教育を云々する主催者と高野連は、大きな才能の一時的な輝きを一時の慰みものにして食い潰そうとするのではなく、彼らに群がる連中から選手たちを全力を賭して護り、その可能性を実感させ、自らの才能を更に大きく育てる道筋を示してやることにこそ意を砕くべきだ。 |
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2006/08/24 20:35 管理人のみ閲覧できます
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2006/08/24 20:35 | | # |
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