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パフォーマンス好きのどっかの誰かは筋書き通りでしかなかったが、ギュンター・グラスが武装親衛隊だったことを告白した、というニュースにはエラく驚かされた。文学者や哲学者とナチズムといえば、ハイデッガーのナチ荷担が明らかになるにつれて珍妙な擁護論をあちこちにばらまかれるキッカケとなった騒ぎが最も有名だろうが、メールマンの「巨匠たちの聖痕」におけるブランショ論がデリダやレヴィナスを沈黙させ、そのデリダがド・マンを擁護して、などなど、似たような事件は数多い。だがよりにもよってグラスか、、、。とはいえ、そもそも反ナチ色の強いノーベル文学賞受賞者だけに返還論を唱える人もいるようだが、こういう短絡的な反応はさしあたりどうでもよいことだ。
この「告白」は新刊の自伝の中に詳細が書かれているようなので、結局現時点では詳しくはわからないのだけれど、「蟹の横歩き」において果たした方針転換の延長線上として、遂に語らねばならぬ時が来たということなのかなあ、という気がする。「蟹」は雑多な避難民を目一杯載せたヴィルヘルム・グストロフ号がソ連の潜水艦に撃沈され、9000余命の犠牲者を出したという、史上最悪の海難事件、ただし戦後それについて語ることは一切タブーとなった悲劇を描いたノンフィクション色の濃い一冊で、ドイツではベストセラーとなった本だ。 物語はナチスの指導者だったグストロフ、彼を射殺したユダヤ人青年、グストロフ号を撃沈した潜水艦船長と生還者という4人の姿を縦糸に、その船上で子を産み、後に筋金入りのスターリン主義者となった母、右にも左にもなれず宙ぶらりんな(仲間の大江的用語だが)子、さらに極右ネオナチへと突っ走るその息子という現代の3人の姿が横糸として絡みついて、第二次大戦=ナチ=絶対悪という思考停止によって長らく封印されてきた、被害者としてのドイツを描き出した画期的な一作だった。この本が優れていたのは、ホロコーストをソヴィエトの行為と対比することによって相対化し、いわば罪の相殺を計ろうとするような一種の詐術に対して繰り返し警告を発していたグラスらしく、ソヴィエトの戦争犯罪という単純な図式には陥っていないところにあった。 そしていま、SSであることを告白したコンテクストを合わせて思い出してみれば、詳細なノンフィクション的歴史記述より、ネオナチの息子がインターネットでグストロフ号事件の資料を漁っている際に見つけたサイトでの論戦と、「決して終わらないのだ」という最後の一文が鮮やかに照らされる気がする(図書館で借りたので手元にないため、読み返せないっつうのもあるんだけど)。このサイトの管理者はハンドルとしてグストロフのファーストネームを名乗り、その論敵は、グストロフを射殺したユダヤ人青年の名前で現れる。仮面を被り直した登場人物たちが再び現れて、対立の構図は今なお繰り返されている。ドイツの苦難を超越的な立場から描くよりも、過去に蓋をするだけの思考停止が隠蔽してきたツケを過去と現在とにそれぞれ結びつけて抉り出した後で、グラス自らが告白する、というのは、一応通りはよい。 無論、その先の問題に関しては、くだんの「自伝」を待たねばならないだろう。ただ、花田清輝ではないが、戦争責任そのものより、戦後いかにそれを乗り越えたかの方が遙かに重要だ。果たしてグラスはどのようにそのプロセスを書くのだろうか。 |
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