アンスネス日本公演
2006/08/29 23:50
 引き続きアンスネスのネタ。台風直撃トッパンホールから早5年、2月8日オペラシティでのプロがジャパンアーツのHP上で発表された。

2月8日 オペラシティ
グリーグ  ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード op.24
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番 op.111
ムソルグスキー 展覧会の絵

 どわー、op.111キタ━━━ヽ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )ノ━━━!!!!
今年はデビュー録音でも弾いていたop.110を弾いているので、ベートーヴェンやるならこれか、と勝手に思っていたのだが、op.111とはありがたやありがたや。彼のベートーヴェンは10年くらい前に紀尾井ホールで聴いた「告別」以来だし、本当に楽しみだなあ。それにしても去年以来、リフシッツ、ガヴリリュクにヤブロンスキー、今年後半にもケンプが弾くし、展覧会の絵がやたらと多いな。
 で、ついでに検索かけてみたら、どうやら王子とさいたまも決定している模様。

2月6日王子ホール & 2月10日さいたま芸劇
シベリウス キュリッキ 3つの抒情的小品 op.41
グリーグ ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード op.24
シェーンベルク 6つのピアノ小品 op.19
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番 op.111

 おおおおー、こちらにはシェーンベルクがキタ━━━ヽ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )ノ━━━!!!! シベリウスのキュリッキもグリーグのバラードもかなり珍しい曲だなあ。まるで覚えていないのでBISのシベリウスとNaxosグリーグのピアノ作品集(前者はTawaststjerna、後者はノックレベリ)引っ張り出して聴いてみたが、アンスネスの透き通った音色にやたらと合いそう。とはいえ、今年欧州で弾いているシューマンのop.32弾いてほしかったなあ。

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サマフェス+甲子園ネタ続報
2006/08/27 00:00
1)
 25日のサントリー・サマーフェス・スペクトラルは心底疲弊しやした。リンドベルイは手先の器用さが徒となった典型というか。しかし25分近くも延々引き延ばし、巨大編成を扱う必然性をまるで感じない。ダルバヴィのピアノ協奏曲に至っては、もう言うべき言葉がないほどの駄作。世界初演となったヤナーチェクの変奏曲は、そもそも変奏曲とは言えないだろ、これは。海もダルな演奏。これで前半が8時10分終了、終演は9時半というのは有り難迷惑というやつだ。

 収穫は「変奏曲」の元ネタ「霧の中で」におけるアンスネスの演奏のみだが、パンフにはそれを匂わす記述が一切なかったので、前半で帰ってしまったアンスネス目当ての聴衆多数。おおまかな演奏時間も消えてるが、1曲目があんなにダラダラと続くなんて普通予想だにしないんだから、以前のように書いてあった方が親切なんでないかなあ。

2)
 先の甲子園ネタにコメントである記事をご紹介頂いたものの、非公開コメントゆえ。ご教示頂いたのはこの記事。
http://juninamiya.fc2web.com/
 このライター氏は寡聞にして知らなかったものの、秋田×本荘のネタもかぶってるなあ。。。その他もなかなか面白そうな、今後注目してみます。ご教示ありがとうございました。

 しかし斎藤を追いかけて、みんな楽しみにしていたヤンキース戦観戦を吹っ飛ばしてしまうマスコミは、ほんとにしょーもねえなあ。
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甲子園にモノ申す
2006/08/24 00:00
 今夏は久しぶりに甲子園をちょくちょく見た。駒大苫小牧の誇る「北の怪物」(というか、マジメな時の顔は大仏だなあ)田中と大阪桐蔭のスーパー2年生中田見たさゆえのことから始まったのだけれど、こんなに見たのは松坂イヤーの98年以来のこと。

 とはいえ、クソ暑い真夏の炎天下で無謀に近い連戦を強いる甲子園というシステム自体は、子供の頃から嫌いだった。今年はその意味で、松坂イヤーにも増して、改めて甲子園の理不尽を痛感させる大会だった。体調不良を押して投げ続けた駒大苫小牧の田中も大概だが、早実・斎藤の酷使ぶりは目を覆うばかりのものがあった。松坂は250球を投じたPLとの伝説的死闘に続く明徳義塾との準決勝は外野スタート、9回にリリーフしただけだったからまだマシだったと思えるほど。斎藤は延長戦となった日大三高との西東京大会決勝からして、投球数ぬわんと221(!)。甲子園でも結局すべてのアウトカウントは彼が取ったわけで、実質的に全試合で完投、甲子園のみの総投球数は実に1000近く。ブラウンが来る以前の前時代的な広島キャンプですらこんなに投げさせんわ。しかも金属バットで打球が速く、ボールが飛ぶせいかHR連発の大会とあって、投手の負担はただでさえ並大抵ではない。その中でのこの投球数は、はっきり自殺行為以外の何物でもあるまいよ。それに対し、マスコミは一様に斎藤と早実ナインの奮闘を讃えるのみ。主催者たる朝日新聞はじめ、真夏の炎天下に高校生を晒し続け、野球を職業としている人々ですら決してすることのない投球数を強いる、この常軌を逸したシステムに苦言を呈す声がほとんど聞こえてこない。

 そもそも高校野球なんてのは高校の部活動の延長線上に過ぎない。それをメディアイヴェントとしてクローズアップし、人体生理学的に見て自殺行為に近い行為の後押しをしてきたこと自体に大きな問題があるのは、火を見るよりも明らかなこと。なにせ、一番大切なのは出場する選手たちの躯と健康である、という当たり前の大前提が甲子園には欠落しており、あるのは運営側の論理ばかり。その手前勝手なシステムに高校生たちを巻き込む構図は、パイロット一人を養成するのにどれだけのカネと手間がかかるかを全く考慮に入れない特攻と、無駄死に過ぎない玉砕とを無理強いした軍国主義の双子。斎藤や田中の奮戦ぶりを賞賛するに吝かではないけれど、そうした場で生み出されたドラマを端から感動物語に仕上げて称揚する構図にもまた、おぞましいものが潜んでいやしないか?

 現状では勝ち抜いてゆく高校の主戦級投手に人間の能力の限界を遙かに超えた負荷がかかるが、負担軽減はやろうと思えば出来ることだ。まず第一に、試合間隔を開けること。選手や応援団の滞在費が苦しくて無理と言うなら、大阪と神戸はじめとする周辺球場を併用し、試合消化を大幅に早め、休養日を設ければ済むことだ。ウィンブルドンのセンターコートと同じで、準決勝以上は洩れなく甲子園、という具合にすれば、タイガースが死のロードで毎年苦労することもあるまいよ。

 そしてまた、決勝再試合で斎藤を先発させることを躊躇ったものの結局のところ先発・完投させた早実の監督と、疲労を否定した本人のコメントとが示しているように、監督および選手の自制心にはまるで期待できないのだから、WBCのように、ルールとしての球数制限を導入するべきだ。高校野球は、まるで金田、稲尾や杉浦、権藤の時代のまま、奇跡の4連投だの権藤権藤雨権藤な時代が未だに続いている度し難いアナクロ。骨格が発達中の高校生には1試合あたり100球でも多いのではなかろうか? 球数制限すれば投手の数が足りない、と言うのなら、いっそ都道府県大会までを各高校単位での試合とし、甲子園は各ブロックで優秀な成績を収めた選手たちで構成される選抜チームの大会にしちゃえばいい。そうすればプロ野球並の継投による分業制も可能になるだろう。わざわざ高校単位で全国大会を争うことには、高校の生徒獲得を目的とした宣伝以外、なんら合理的理由はないのだから。

 それもこれも、選手たちの可能性を一夏で潰し、その後の人生を踏みにじる愚をもう繰り返さないためだ。高校生離れしたインサイドワークを中心としたクレバーな投球術とそれを支える制球力に頭抜けたものがあった斎藤、あるいは本調子とは程遠いながらも、いかにもプロ向きなメンタルの図太さと切れ味鋭いスライダーを誇った田中の野球人生が、甲子園での酷使が原因で一時の輝きに終わってしまうようなことがあれば、これは彼らのためにもならないどころか、日本野球界の大損失だ。今や日本球界を代表する大エースに成長した松坂のような桁外れの化け物ならば別かもしれないが、誰もが松坂並の人間離れした頑丈さを持っているという保証なぞない(松坂ですら、プロ入り時にはその将来を危ぶむ声は多くあった)し、松坂とて今後勤続疲労に襲われる可能性を否定はできない。となれば悲劇を招く可能性を摘み取るべく抜かりなく手を打つこと、これが「大人」で構成された大会運営者たちに第一に求められることではないのか?

 なにせ改めて振り返るまでもなく、甲子園はウンザリするほど過ちを積み重ねて来た。その典型例の一人が、リトルで世界大会まで行って投げまくり、高校でも1年からエースを張って、相次ぐ無茶投げの挙げ句にプロ入りし、結局は故障連発でさしたる成績を挙げられないまま選手生命を終えた斎藤の先輩、荒木大輔。そして荒木を斎藤と重ね合わせると余計に暗澹たる気分になる。下のグラスの本ではないけれど、早実関係者も甲子園の運営者も、誰一人として先人の苦い轍から学ぼうとはしていない。投げすぎでキャリアを縮めた荒木は決勝再試合の前に斎藤の躯を気遣い、「出来れば雨が降ってくれれば」とコメントしたが、これは故障との果てしない闘いだった現役時代を過ごした彼の言葉ゆえの重さがある。

 甲子園の問題は他にもいろいろとあろう。時代遅れな高校生観や坊主頭の強要、アマチュアリズムやスポーツマンシップの取り違え(たとえば秋田大会準決勝の秋田×本荘戦。この試合にはサスペンデッドの珍妙なルールも絡んでいる)、理不尽極まりない連帯責任の思想と、それによって影で頻発する心ない密告等々。このあたりは今後の課題としても、高校生たちの躯を気遣う発想は、もう待ったなしで早急に導入すべき事項だ。教育を云々する主催者と高野連は、大きな才能の一時的な輝きを一時の慰みものにして食い潰そうとするのではなく、彼らに群がる連中から選手たちを全力を賭して護り、その可能性を実感させ、自らの才能を更に大きく育てる道筋を示してやることにこそ意を砕くべきだ。

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グラスの告白
2006/08/16 00:00
 パフォーマンス好きのどっかの誰かは筋書き通りでしかなかったが、ギュンター・グラスが武装親衛隊だったことを告白した、というニュースにはエラく驚かされた。文学者や哲学者とナチズムといえば、ハイデッガーのナチ荷担が明らかになるにつれて珍妙な擁護論をあちこちにばらまかれるキッカケとなった騒ぎが最も有名だろうが、メールマンの「巨匠たちの聖痕」におけるブランショ論がデリダやレヴィナスを沈黙させ、そのデリダがド・マンを擁護して、などなど、似たような事件は数多い。だがよりにもよってグラスか、、、。とはいえ、そもそも反ナチ色の強いノーベル文学賞受賞者だけに返還論を唱える人もいるようだが、こういう短絡的な反応はさしあたりどうでもよいことだ。

 この「告白」は新刊の自伝の中に詳細が書かれているようなので、結局現時点では詳しくはわからないのだけれど、「蟹の横歩き」において果たした方針転換の延長線上として、遂に語らねばならぬ時が来たということなのかなあ、という気がする。「蟹」は雑多な避難民を目一杯載せたヴィルヘルム・グストロフ号がソ連の潜水艦に撃沈され、9000余命の犠牲者を出したという、史上最悪の海難事件、ただし戦後それについて語ることは一切タブーとなった悲劇を描いたノンフィクション色の濃い一冊で、ドイツではベストセラーとなった本だ。

 物語はナチスの指導者だったグストロフ、彼を射殺したユダヤ人青年、グストロフ号を撃沈した潜水艦船長と生還者という4人の姿を縦糸に、その船上で子を産み、後に筋金入りのスターリン主義者となった母、右にも左にもなれず宙ぶらりんな(仲間の大江的用語だが)子、さらに極右ネオナチへと突っ走るその息子という現代の3人の姿が横糸として絡みついて、第二次大戦=ナチ=絶対悪という思考停止によって長らく封印されてきた、被害者としてのドイツを描き出した画期的な一作だった。この本が優れていたのは、ホロコーストをソヴィエトの行為と対比することによって相対化し、いわば罪の相殺を計ろうとするような一種の詐術に対して繰り返し警告を発していたグラスらしく、ソヴィエトの戦争犯罪という単純な図式には陥っていないところにあった。

 そしていま、SSであることを告白したコンテクストを合わせて思い出してみれば、詳細なノンフィクション的歴史記述より、ネオナチの息子がインターネットでグストロフ号事件の資料を漁っている際に見つけたサイトでの論戦と、「決して終わらないのだ」という最後の一文が鮮やかに照らされる気がする(図書館で借りたので手元にないため、読み返せないっつうのもあるんだけど)。このサイトの管理者はハンドルとしてグストロフのファーストネームを名乗り、その論敵は、グストロフを射殺したユダヤ人青年の名前で現れる。仮面を被り直した登場人物たちが再び現れて、対立の構図は今なお繰り返されている。ドイツの苦難を超越的な立場から描くよりも、過去に蓋をするだけの思考停止が隠蔽してきたツケを過去と現在とにそれぞれ結びつけて抉り出した後で、グラス自らが告白する、というのは、一応通りはよい。

 無論、その先の問題に関しては、くだんの「自伝」を待たねばならないだろう。ただ、花田清輝ではないが、戦争責任そのものより、戦後いかにそれを乗り越えたかの方が遙かに重要だ。果たしてグラスはどのようにそのプロセスを書くのだろうか。
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わからない日本語
2006/08/01 22:35
 書店にガンダムThe originの第13巻を買いに行ったら、エスクァイア日本版が珍しくクラシック特集だった。この雑誌、行きつけの美容室(なんか髪切り場ネタ連続だけれど、実は歯医者と並び世界で最も居たくない場所である)でいつも手渡されるため、長年ロハで読んでいる。今回もそうすればよかったのだが、パラパラめくって買ってきてしまった。そしてこれがヒドい。。。

 セレブとやらのオモチャとしてのクラシック音楽、というバブル期に食傷するほど目にしたパターンの焼き直し。つまり喉元過ぎればなんとやらの無反省な特集だ。、、、なーんていう文句は、この雑誌の性格上、そんなこと言うならエスクァイアなんか読むな、という話で終わってしまうので目を瞑るべきだろう。それにロシアピアニズム+古楽というメインディッシュの取り合わせは、クラシック専門誌でもないのに、なかなかどうして気の利いた目の付け所。さすがだなエスクァイア。しかし、しかしである。最近のエスクァイアは、ハイクオリティをウリにする内容と捻りの入った編集方針に、肝心の文章が追いついていないと感じることが多い。今回の特集は、そういった不満の典型例だ。

 なにせわかったようなわからないような文章がゾロゾロ並んでいる。中でもロシアピアニズムの原稿は、内容もヒドいのだけれど、それ以前に日本語として成立していないおかしな文章ばかり、文字通りお話にならないお粗末なもの。筆者はカメラマンとして一級の仕事を残しつつあるようで、この稿の彼による写真は資料として十分面白いけれど、ゆめ港千尋になれるタイプではないことくらい自分で気付く自己批評眼を持ってくれんかね。悪いが、はっきりファインダーを覗いてこそ、ペンを持つべきではない人材だ。他には平野啓一郎が思い切りトンマなのには最早哀れを感じる。大いに期待していたんだけどなあ。

 ただ、この雑誌の大きなウリである写真の質と、そのインパクトを更に高めるヴィジュアルデザインだけはさすがだなあ、と唸る。たとえばアーノンクールをこれほどカッコよく提示した音楽誌が他にあるだろうか?? それが(それだけが)ウリ。こう書くと否定的みたいだけど、ヴィジュアルデザインは実際問題音楽誌のアキレス腱。こういう誌面作りはできないもんかねえ。。。

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