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おかか1968ダイアリーに、朝日新聞から転載した欧州オケ・ランキングが出ている。これは元々、彼も推察するとおり、Le monde de la musique(たまにCDに貼ってあるCHOCシールの元締め)の企画である。それにしてもこれを「ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック」とやらず「音楽の世界」と訳すのは初めて見た。なかなか新鮮(笑)
さてその企画が出ている号、実は友人が土産に持って来てくれて手元にあったりする。あっちにコメントしようかとも思ったんだけれど、少々長いので、ここで補完。 このランキングは、欧州各地の雑誌編集長およびラジオの編成担当、あわせて10人に10位までの順位表を出してもらって、上から順に10点、9点、、、といった具合にポイントを振って集計したものである。 つまり、このランキングはサンプルが少なすぎて統計学上まったく意味を為さない、ということをまず確認しておかねばならない。せめて各誌の抱える評論家連中を総動員してベスト20を募集し、その結果集計でベスト10を出したならばまだしも論じるに値するものになったかもしれんが、こんなんでは何の意味もありゃせんがな。企画の杜撰さに呆れ果てたので、実はヘッドライン以外は今さっき読んだばかりである(苦笑) この集計に関して文章書いてるオリヴィエ・ベラミの文章も、それだけに牽強付会に近くて、いつも以上に内容が薄い。彼の記事は「ベルリンは負けたがドイツは勝った」という一文に要約できてしまう。オイオイ。 というわけで前置きが長くなったが、以下が10人それぞれのランキング。個人名はカットし、媒体名だけ。 クレッシェンド(ベルギー) 1位 ウィーン・フィル 2位 ベルリン・フィル 3位 シュターツカペレ・ドレスデン 4位 ロンドン交響楽団 5位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 6位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 7位 バイエルン放送響 8位 ロンドン・フィル 9位 チェコ・フィル 10位 NDR北ドイツ放響 フォノ・フォーラム(ドイツ) 1位 ベルリン・フィル 2位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 3位 ウィーン・フィル 4位 バンベルク交響楽団 5位 SWRシュトゥットガルト 6位 ロンドン交響楽団 7位 SWRバーデンバーデン&フライブルク 8位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 9位 ミュンヘン交響楽団 10位 ドレスデン・シュターツカペレ グラモフォン(イギリス) 1位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 2位 ベルリン・フィル 3位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 4位 ウィーン・フィル 5位 ロンドン交響楽団 6位 ブダペスト祝祭管 7位 ドレスデン・シュターツカペレ 8位 バイエルン放送響 9位 ロンドン・フィル 10位 ベルリン・シュターツカペレ MDR=フィガロ(ドイツのラジオ) 1位 ウィーン・フィル 2位 ベルリン・フィル 3位 チェコ・フィル 4位 ドレスデン・シュターツカペレ 5位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 6位 サンクトペテルブルク・フィル 7位 ロンドン交響楽団 8位 バイエルン放送響 9位 チューリッヒ・トーンハレ管 10位 フランクフルト放送響 ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック(フランス) 1位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 2位 バイエルン放送響 3位 ウィーン・フィル 4位 ベルリン・フィル 5位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 6位 ロンドン交響楽団 7位 ドレスデン・シュターツカペレ 8位 サンクトペテルブルク・フィル 9位 フランス国立管 10位 トゥールーズ・キャピトル国立管 ムジカ(イタリア) 1位 ベルリン・フィル 2位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 3位 バイエルン放送響 4位 ロンドン交響楽団 5位 サンクトペテルブルク・フィル 6位 ウィーン・フィル 7位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 8位 ドレスデン・シュターツカペレ 9位 ロンドン・フィル 10位 オスロ・フィル ピツィカート(ルクセンブルク) 1位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 2位 ウィーン・フィル 3位 ドレスデン・シュターツカペレ 4位 サンクトペテルスブルク・フィル 5位 ロンドン交響楽団 6位 フィルハーモニア 7位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 8位 ベルリン・フィル 9位 バイエルン放送響 10 ミュンヘン交響楽団 ラジオ・クラシック(フランスのラジオ) 1位 ウィーン・フィル 2位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 3位 バイエルン放送響 4位 ドレスデン・シュターツカペレ 5位 ベルリン・フィル 6位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 7位 ロンドン交響楽団 8位 ブダペスト祝祭管 9位 パリ管 10位 バンベルク交響楽団 スケルツォ(スペイン) 1位 ベルリン・フィル 2位 ウィーン・フィル 3位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 4位 ロンドン交響楽団 5位 ドレスデン・シュターツカペレ 6位 バイエルン放送響 7位 フィルハーモニア 8位 ミュンヘン交響楽団 9位 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 10位 サンクトペテルブルク・フィル トリビューン・ジュネーヴ(スイスの日刊紙) 1位 ウィーン・フィル 2位 サンクトペテルブルク・フィル 3位 アムステルダム・コンセルトヘボウ 4位 NDR北ドイツ放響 5位 ベルリン・フィル 6位 バイエルン放送響 7位 ロンドン交響楽団 8位 ヘルシンキ・フィル 9位 チェコ・フィル 10位 オスロ・フィル いやー、つまらん! どいつもこいつもつまらん!!(大滝秀治風に)。だけどまあ、ベスト10企画なんていうものは、よほど穿ったチョイスを狙わない限り、いずれこういうもんになっちまうのが宿命でありますな。 ざっと見渡すと、BPOが総合3位に沈んだのは、ルクセンブルクとフランス、スイスの連中の評点が辛いせいであることがわかる。3国の地理的・歴史的位置をどう見るべきか、、、って3人しかいないのでどうしょもないが(爆)。 |
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ロッテがソフトバンクの単独使命予定だった石垣島の大嶺投手を強行指名した上引き当てて、話題を呼んでいる。昨年の陽と同じで(陽の場合、一旦はソフトバンクに決まった、と思いきや直後に日ハムが交渉権獲得、と訂正されたため、糠喜びさせたことが本当に可哀想ではあるが)、大嶺もまた指名された球団に進むべきだと考える。
自分が応援しているライオンズ、そしてホークスが現在の戦力を作り上げた最大の功労者は、なんといっても、いまはウチの窓からその尖塔が見えるニコライ堂に眠る、故・根本陸夫氏である。球界の寝業師の異名を取った彼は、高校はもちろん、場合によっては中学、果ては小学校時代から目をつけた選手を確実に入団させるためには手段を選ばないスタイルを一貫して取っていた。熊本工から所沢商に転校させ、球団職員にしたあとドラフト1位で取った現監督・伊東。熊谷組へ行く筈だったのを6位で指名した工藤。怪我でプロ入りはしない、と明言していた伊野商=NTT四国の渡辺智男にライオンズのチームドクターをつけて、抜け駆け1位指名。ついでにやはりプロ入り拒否を明言していた、系列プリンスに所属する将来のエース石井丈裕も2位で獲得。 ホークスに移ってからも寝技は炸裂しまくりで、新垣と三輪田氏を巡る悲劇的な事件を筆頭に枚挙に暇がない。本人や家族のみならず、親戚から関係者に至るまで広範にカネをばらまくことで恩を着せてゆくスタイルは根本以来の伝統で、選手個人としても家族としても、ライオンズやホークス以外に指名されたとて、そう簡単には首をタテには振れないようになっているわけだ。根本の死後、楽天・一場の栄養費問題発覚などもあり、こうしたスタイルは急速になりを潜めたのは事実だが、恐らく大嶺に対しては同様の手法が採られたのだろう。 こういう邪推をしたくもなるのは、野球部監督・伊志嶺氏の反応が新垣の時以上に露骨でヒステリックだからである。彼の進路に関し、アドヴァイスくらいはするだろうが基本的には第三者でしかない監督のコメントからは、根本流囲い込み=金銭授受を疑わせずにはおかない。なによりプロに1位指名されるということ自体がどエラいことであり、ロッテもまた大嶺を高く評価して貴重な1位の枠で指名した、ということを斟酌する度量がまるでない。そしてスカウトからの指名後の電話を「話が違う」と度々着信拒否しまくった挙げ句、「石垣の人間の気質を考えると、関西や関東に行かせたらダメになる」、「アメリカ人とは言葉も気持ちも通じない」などと世にも愚かなことを次々に言っているのである。大学の友人に石垣島出身者がいたが、彼は何もダメにはなっとりゃせんし、プロ野球界にわんさといる外国出身者とまるで気持ちが通じないんじゃ商売にならんだろうが。 その後もこの監督はロッテの挨拶を門前払いし、大嶺の気持ちが変わるかもしれない可能性の芽を摘み取ってロッテ以外の進路に進ませようと躍起になっている。ロッテを振って行くかもしれないとされる社会人チームの一つにJR東日本が挙がっているんだから笑っちまうが、このバ監督の次男が所属する社会人チームへの進路なんてのは、あからさますぎるほどミエミエの囲い込みだろうが。この大人げなさと出しゃばりようからは、大嶺の将来に対する真摯な配慮なぞより、甘い汁を吸う機会を逃してなるものか、というがめつさから感じることは出来ないのはオレが意地悪だからか? いずれにせよ、ここまで愚かな言動を繰り返していると、石垣のイメージまで悪くするぞ、バ監督。 そもそも何故こういうことが繰り返されるか、といえば、各球団の戦力均衡のため、というお題目と、実質上12球団OKでない限りプロ志望届けを受け付けない昨今の高野連の態度にもかかわらず、希望球団以外を拒否したところでなんらお咎めも受けることがない、現行ドラフトのザルぶりゆえである。高野連はドラフト前の発言に対し口うるさく指導するなら、あのカネに目が眩んでいるとしか見えない監督の口にもテープを貼り、行動を制限すべきではないのか? ドラフト前は箝口令を敷くが、終われば言いたい放題やりたい放題、というダブル・スタンダードが罷り通る現状に対して、なんら手を講じない高野連という団体は、つくづくしょーもない連中で出来ている。先の甲子園における無茶投げと同様で、外堀を埋められてしまった高校生たちに「自分の考え」なんてものは持ちようがない。いや、むしろ高校生に限ったことではなく、人間それほど靱く出来てない、と言うべきだろう(ヤクルト確実と言われていたヤクルトファンの高橋由伸が、オヤジの借金を丸抱えした巨人を逆指名し、その発表会見で見せた沈痛な表情が忘れられない。まるでお通夜)。こうしてがんじがらめにされた高校生をならず者どもから救おうという発想は、高野連にはまるでない。 ちなみに自分は、指名拒否に対する重大なペナルティを含む完全ウェーバー制以外に良策なし、という立場である。よく職業選択の自由をタテに彼らの希望を叶えられないのは憲法違反だ、などというナベツネまがいの大風呂敷を広げる手合いも見かけるが、プロ野球という興業は1球団だけでは決して成り立たない以上、プロ野球界という共同体への参加そのものをもって職業選択と見なすべきで、ドラフト会議はその入り口、と捉えているからだ。従って高校生に与えない逆指名・希望枠の権利を、大学・社会人の、それも一握りの有望選手のみに与えることの理不尽と不公平こそを糾弾する立場を取っている。 笑っちまうほど弱かったライオンズとホークスを超一流球団に押し上げた根本の手腕を高く評価するに吝かではないが、ライオンズファンとしても80年代後半から90年代前半の黄金期は正直勝ちすぎで面白くなかったし(アタマの薄い記者たちが書き立てたように森監督の野球が、ではなく、競り合いの要素が少なすぎるという意味である)、21世紀に入ってのホークスぶっちぎりもまた、ペナントレースの興を殺いでしまった感がある。根本の目指すところはいずれも巨人V9のようなチームだったのだろうが、野球そのものに対する注目度が下がっている現代、圧倒的な戦力を誇るチームの構築を目論むことは興業としてのプロ野球の魅力を減ずるだけのアナクロニズムに過ぎない。 今回の高校生ドラフトでは、目玉だった駒大苫小牧の田中を、最も戦力を必要としている楽天が引き当てるなど、中日堂上あたりを除けば低迷するチームに逸材が配分された感が強い。大嶺本人が気落ちしているのはわからんでもないけれど、自分にたかるバ監督や取り巻きどもの讒言に弄されず、思い切ってロッテの門を叩き、憧れのホークスに立ち向かうことでパ・リーグをより一層盛り上げてくれることを切に願う。 |
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引き続きアンスネスのネタ。台風直撃トッパンホールから早5年、2月8日オペラシティでのプロがジャパンアーツのHP上で発表された。
2月8日 オペラシティ グリーグ ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード op.24 ベートーヴェン ピアノソナタ第32番 op.111 ムソルグスキー 展覧会の絵 どわー、op.111キタ━━━ヽ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )ノ━━━!!!! 今年はデビュー録音でも弾いていたop.110を弾いているので、ベートーヴェンやるならこれか、と勝手に思っていたのだが、op.111とはありがたやありがたや。彼のベートーヴェンは10年くらい前に紀尾井ホールで聴いた「告別」以来だし、本当に楽しみだなあ。それにしても去年以来、リフシッツ、ガヴリリュクにヤブロンスキー、今年後半にもケンプが弾くし、展覧会の絵がやたらと多いな。 で、ついでに検索かけてみたら、どうやら王子とさいたまも決定している模様。 2月6日王子ホール & 2月10日さいたま芸劇 シベリウス キュリッキ 3つの抒情的小品 op.41 グリーグ ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード op.24 シェーンベルク 6つのピアノ小品 op.19 ベートーヴェン ピアノソナタ第32番 op.111 おおおおー、こちらにはシェーンベルクがキタ━━━ヽ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )ノ━━━!!!! シベリウスのキュリッキもグリーグのバラードもかなり珍しい曲だなあ。まるで覚えていないのでBISのシベリウスとNaxosグリーグのピアノ作品集(前者はTawaststjerna、後者はノックレベリ)引っ張り出して聴いてみたが、アンスネスの透き通った音色にやたらと合いそう。とはいえ、今年欧州で弾いているシューマンのop.32弾いてほしかったなあ。 |
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25日のサントリー・サマーフェス・スペクトラルは心底疲弊しやした。リンドベルイは手先の器用さが徒となった典型というか。しかし25分近くも延々引き延ばし、巨大編成を扱う必然性をまるで感じない。ダルバヴィのピアノ協奏曲に至っては、もう言うべき言葉がないほどの駄作。世界初演となったヤナーチェクの変奏曲は、そもそも変奏曲とは言えないだろ、これは。海もダルな演奏。これで前半が8時10分終了、終演は9時半というのは有り難迷惑というやつだ。 収穫は「変奏曲」の元ネタ「霧の中で」におけるアンスネスの演奏のみだが、パンフにはそれを匂わす記述が一切なかったので、前半で帰ってしまったアンスネス目当ての聴衆多数。おおまかな演奏時間も消えてるが、1曲目があんなにダラダラと続くなんて普通予想だにしないんだから、以前のように書いてあった方が親切なんでないかなあ。 2) 先の甲子園ネタにコメントである記事をご紹介頂いたものの、非公開コメントゆえ。ご教示頂いたのはこの記事。 http://juninamiya.fc2web.com/ このライター氏は寡聞にして知らなかったものの、秋田×本荘のネタもかぶってるなあ。。。その他もなかなか面白そうな、今後注目してみます。ご教示ありがとうございました。 しかし斎藤を追いかけて、みんな楽しみにしていたヤンキース戦観戦を吹っ飛ばしてしまうマスコミは、ほんとにしょーもねえなあ。 |
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今夏は久しぶりに甲子園をちょくちょく見た。駒大苫小牧の誇る「北の怪物」(というか、マジメな時の顔は大仏だなあ)田中と大阪桐蔭のスーパー2年生中田見たさゆえのことから始まったのだけれど、こんなに見たのは松坂イヤーの98年以来のこと。
とはいえ、クソ暑い真夏の炎天下で無謀に近い連戦を強いる甲子園というシステム自体は、子供の頃から嫌いだった。今年はその意味で、松坂イヤーにも増して、改めて甲子園の理不尽を痛感させる大会だった。体調不良を押して投げ続けた駒大苫小牧の田中も大概だが、早実・斎藤の酷使ぶりは目を覆うばかりのものがあった。松坂は250球を投じたPLとの伝説的死闘に続く明徳義塾との準決勝は外野スタート、9回にリリーフしただけだったからまだマシだったと思えるほど。斎藤は延長戦となった日大三高との西東京大会決勝からして、投球数ぬわんと221(!)。甲子園でも結局すべてのアウトカウントは彼が取ったわけで、実質的に全試合で完投、甲子園のみの総投球数は実に1000近く。ブラウンが来る以前の前時代的な広島キャンプですらこんなに投げさせんわ。しかも金属バットで打球が速く、ボールが飛ぶせいかHR連発の大会とあって、投手の負担はただでさえ並大抵ではない。その中でのこの投球数は、はっきり自殺行為以外の何物でもあるまいよ。それに対し、マスコミは一様に斎藤と早実ナインの奮闘を讃えるのみ。主催者たる朝日新聞はじめ、真夏の炎天下に高校生を晒し続け、野球を職業としている人々ですら決してすることのない投球数を強いる、この常軌を逸したシステムに苦言を呈す声がほとんど聞こえてこない。 そもそも高校野球なんてのは高校の部活動の延長線上に過ぎない。それをメディアイヴェントとしてクローズアップし、人体生理学的に見て自殺行為に近い行為の後押しをしてきたこと自体に大きな問題があるのは、火を見るよりも明らかなこと。なにせ、一番大切なのは出場する選手たちの躯と健康である、という当たり前の大前提が甲子園には欠落しており、あるのは運営側の論理ばかり。その手前勝手なシステムに高校生たちを巻き込む構図は、パイロット一人を養成するのにどれだけのカネと手間がかかるかを全く考慮に入れない特攻と、無駄死に過ぎない玉砕とを無理強いした軍国主義の双子。斎藤や田中の奮戦ぶりを賞賛するに吝かではないけれど、そうした場で生み出されたドラマを端から感動物語に仕上げて称揚する構図にもまた、おぞましいものが潜んでいやしないか? 現状では勝ち抜いてゆく高校の主戦級投手に人間の能力の限界を遙かに超えた負荷がかかるが、負担軽減はやろうと思えば出来ることだ。まず第一に、試合間隔を開けること。選手や応援団の滞在費が苦しくて無理と言うなら、大阪と神戸はじめとする周辺球場を併用し、試合消化を大幅に早め、休養日を設ければ済むことだ。ウィンブルドンのセンターコートと同じで、準決勝以上は洩れなく甲子園、という具合にすれば、タイガースが死のロードで毎年苦労することもあるまいよ。 そしてまた、決勝再試合で斎藤を先発させることを躊躇ったものの結局のところ先発・完投させた早実の監督と、疲労を否定した本人のコメントとが示しているように、監督および選手の自制心にはまるで期待できないのだから、WBCのように、ルールとしての球数制限を導入するべきだ。高校野球は、まるで金田、稲尾や杉浦、権藤の時代のまま、奇跡の4連投だの権藤権藤雨権藤な時代が未だに続いている度し難いアナクロ。骨格が発達中の高校生には1試合あたり100球でも多いのではなかろうか? 球数制限すれば投手の数が足りない、と言うのなら、いっそ都道府県大会までを各高校単位での試合とし、甲子園は各ブロックで優秀な成績を収めた選手たちで構成される選抜チームの大会にしちゃえばいい。そうすればプロ野球並の継投による分業制も可能になるだろう。わざわざ高校単位で全国大会を争うことには、高校の生徒獲得を目的とした宣伝以外、なんら合理的理由はないのだから。 それもこれも、選手たちの可能性を一夏で潰し、その後の人生を踏みにじる愚をもう繰り返さないためだ。高校生離れしたインサイドワークを中心としたクレバーな投球術とそれを支える制球力に頭抜けたものがあった斎藤、あるいは本調子とは程遠いながらも、いかにもプロ向きなメンタルの図太さと切れ味鋭いスライダーを誇った田中の野球人生が、甲子園での酷使が原因で一時の輝きに終わってしまうようなことがあれば、これは彼らのためにもならないどころか、日本野球界の大損失だ。今や日本球界を代表する大エースに成長した松坂のような桁外れの化け物ならば別かもしれないが、誰もが松坂並の人間離れした頑丈さを持っているという保証なぞない(松坂ですら、プロ入り時にはその将来を危ぶむ声は多くあった)し、松坂とて今後勤続疲労に襲われる可能性を否定はできない。となれば悲劇を招く可能性を摘み取るべく抜かりなく手を打つこと、これが「大人」で構成された大会運営者たちに第一に求められることではないのか? なにせ改めて振り返るまでもなく、甲子園はウンザリするほど過ちを積み重ねて来た。その典型例の一人が、リトルで世界大会まで行って投げまくり、高校でも1年からエースを張って、相次ぐ無茶投げの挙げ句にプロ入りし、結局は故障連発でさしたる成績を挙げられないまま選手生命を終えた斎藤の先輩、荒木大輔。そして荒木を斎藤と重ね合わせると余計に暗澹たる気分になる。下のグラスの本ではないけれど、早実関係者も甲子園の運営者も、誰一人として先人の苦い轍から学ぼうとはしていない。投げすぎでキャリアを縮めた荒木は決勝再試合の前に斎藤の躯を気遣い、「出来れば雨が降ってくれれば」とコメントしたが、これは故障との果てしない闘いだった現役時代を過ごした彼の言葉ゆえの重さがある。 甲子園の問題は他にもいろいろとあろう。時代遅れな高校生観や坊主頭の強要、アマチュアリズムやスポーツマンシップの取り違え(たとえば秋田大会準決勝の秋田×本荘戦。この試合にはサスペンデッドの珍妙なルールも絡んでいる)、理不尽極まりない連帯責任の思想と、それによって影で頻発する心ない密告等々。このあたりは今後の課題としても、高校生たちの躯を気遣う発想は、もう待ったなしで早急に導入すべき事項だ。教育を云々する主催者と高野連は、大きな才能の一時的な輝きを一時の慰みものにして食い潰そうとするのではなく、彼らに群がる連中から選手たちを全力を賭して護り、その可能性を実感させ、自らの才能を更に大きく育てる道筋を示してやることにこそ意を砕くべきだ。 |
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パフォーマンス好きのどっかの誰かは筋書き通りでしかなかったが、ギュンター・グラスが武装親衛隊だったことを告白した、というニュースにはエラく驚かされた。文学者や哲学者とナチズムといえば、ハイデッガーのナチ荷担が明らかになるにつれて珍妙な擁護論をあちこちにばらまかれるキッカケとなった騒ぎが最も有名だろうが、メールマンの「巨匠たちの聖痕」におけるブランショ論がデリダやレヴィナスを沈黙させ、そのデリダがド・マンを擁護して、などなど、似たような事件は数多い。だがよりにもよってグラスか、、、。とはいえ、そもそも反ナチ色の強いノーベル文学賞受賞者だけに返還論を唱える人もいるようだが、こういう短絡的な反応はさしあたりどうでもよいことだ。
この「告白」は新刊の自伝の中に詳細が書かれているようなので、結局現時点では詳しくはわからないのだけれど、「蟹の横歩き」において果たした方針転換の延長線上として、遂に語らねばならぬ時が来たということなのかなあ、という気がする。「蟹」は雑多な避難民を目一杯載せたヴィルヘルム・グストロフ号がソ連の潜水艦に撃沈され、9000余命の犠牲者を出したという、史上最悪の海難事件、ただし戦後それについて語ることは一切タブーとなった悲劇を描いたノンフィクション色の濃い一冊で、ドイツではベストセラーとなった本だ。 物語はナチスの指導者だったグストロフ、彼を射殺したユダヤ人青年、グストロフ号を撃沈した潜水艦船長と生還者という4人の姿を縦糸に、その船上で子を産み、後に筋金入りのスターリン主義者となった母、右にも左にもなれず宙ぶらりんな(仲間の大江的用語だが)子、さらに極右ネオナチへと突っ走るその息子という現代の3人の姿が横糸として絡みついて、第二次大戦=ナチ=絶対悪という思考停止によって長らく封印されてきた、被害者としてのドイツを描き出した画期的な一作だった。この本が優れていたのは、ホロコーストをソヴィエトの行為と対比することによって相対化し、いわば罪の相殺を計ろうとするような一種の詐術に対して繰り返し警告を発していたグラスらしく、ソヴィエトの戦争犯罪という単純な図式には陥っていないところにあった。 そしていま、SSであることを告白したコンテクストを合わせて思い出してみれば、詳細なノンフィクション的歴史記述より、ネオナチの息子がインターネットでグストロフ号事件の資料を漁っている際に見つけたサイトでの論戦と、「決して終わらないのだ」という最後の一文が鮮やかに照らされる気がする(図書館で借りたので手元にないため、読み返せないっつうのもあるんだけど)。このサイトの管理者はハンドルとしてグストロフのファーストネームを名乗り、その論敵は、グストロフを射殺したユダヤ人青年の名前で現れる。仮面を被り直した登場人物たちが再び現れて、対立の構図は今なお繰り返されている。ドイツの苦難を超越的な立場から描くよりも、過去に蓋をするだけの思考停止が隠蔽してきたツケを過去と現在とにそれぞれ結びつけて抉り出した後で、グラス自らが告白する、というのは、一応通りはよい。 無論、その先の問題に関しては、くだんの「自伝」を待たねばならないだろう。ただ、花田清輝ではないが、戦争責任そのものより、戦後いかにそれを乗り越えたかの方が遙かに重要だ。果たしてグラスはどのようにそのプロセスを書くのだろうか。 |
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書店にガンダムThe originの第13巻を買いに行ったら、エスクァイア日本版が珍しくクラシック特集だった。この雑誌、行きつけの美容室(なんか髪切り場ネタ連続だけれど、実は歯医者と並び世界で最も居たくない場所である)でいつも手渡されるため、長年ロハで読んでいる。今回もそうすればよかったのだが、パラパラめくって買ってきてしまった。そしてこれがヒドい。。。
セレブとやらのオモチャとしてのクラシック音楽、というバブル期に食傷するほど目にしたパターンの焼き直し。つまり喉元過ぎればなんとやらの無反省な特集だ。、、、なーんていう文句は、この雑誌の性格上、そんなこと言うならエスクァイアなんか読むな、という話で終わってしまうので目を瞑るべきだろう。それにロシアピアニズム+古楽というメインディッシュの取り合わせは、クラシック専門誌でもないのに、なかなかどうして気の利いた目の付け所。さすがだなエスクァイア。しかし、しかしである。最近のエスクァイアは、ハイクオリティをウリにする内容と捻りの入った編集方針に、肝心の文章が追いついていないと感じることが多い。今回の特集は、そういった不満の典型例だ。 なにせわかったようなわからないような文章がゾロゾロ並んでいる。中でもロシアピアニズムの原稿は、内容もヒドいのだけれど、それ以前に日本語として成立していないおかしな文章ばかり、文字通りお話にならないお粗末なもの。筆者はカメラマンとして一級の仕事を残しつつあるようで、この稿の彼による写真は資料として十分面白いけれど、ゆめ港千尋になれるタイプではないことくらい自分で気付く自己批評眼を持ってくれんかね。悪いが、はっきりファインダーを覗いてこそ、ペンを持つべきではない人材だ。他には平野啓一郎が思い切りトンマなのには最早哀れを感じる。大いに期待していたんだけどなあ。 ただ、この雑誌の大きなウリである写真の質と、そのインパクトを更に高めるヴィジュアルデザインだけはさすがだなあ、と唸る。たとえばアーノンクールをこれほどカッコよく提示した音楽誌が他にあるだろうか?? それが(それだけが)ウリ。こう書くと否定的みたいだけど、ヴィジュアルデザインは実際問題音楽誌のアキレス腱。こういう誌面作りはできないもんかねえ。。。 |
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先月半ばから夏風邪と扁桃腺炎の連続攻撃に半月ほど堪えつつ、パソコンから少々離れる時期があった。そうなると途端にやらなくなるのがブログ更新。そんなこんなで久々に積ん読本を整理しつつ、夜更かししてワールドカップやウィンブルドンを見ていた日々も、随分前のこと。
さて本題。我が家のメーラは迷惑メールを自動で振り分けるフィルターがついており、大抵はうまいことそこへ放り込んでくれる。アドレスを複数使い分けていることもあり、仕事で必要なメールなぞがそこへ入ることはありえないため、基本的にいつも放っておいてまとめて削除しているのだが、久々に迷惑ボックスを整理していて目が釘付けになったのが上のタイトル。ええええええー、オオアリクイ?! ってあのオオアリクイですか!?(爆) 参考までにメール本体の内容はこんな感じ。 ・ ・・・・・・・・・ いきなりのメール失礼します。 久光さやか、29歳の未亡人です。 お互いのニーズに合致しそうだと思い、連絡してみました。 自分のことを少し語ります。 昨年の夏、わけあって主人を亡くしました。 自分は…主人のことを…死ぬまで何も理解していなかったのが とても悔やまれます。 主人はシンガポールに頻繁に旅行に向っていたのですが、 それは遊びの為の旅行ではなかったのです。 収入を得るために、私に内緒であんな危険な出稼ぎをしていたなんて。 ・ ・・・・・・・・・ 以後夫の死から立ち直ったものの躯の火照りが云々、という王道パターン。ひとしきり笑って思い出したのが、高校くらいまで行っていた床屋が全巻揃えていたため、先客が髪を切り終わるまでいつも読んでいた漫画、ゴルゴ13に出てきたアリクイに血を吸われて死ぬ話。細部はまったく忘れたが、アリしか食わないアリクイが人間の血なんざ吸うかアホ、と子供心に思ったのはよく覚えている。もしかしてこの書き手、ゴルゴ好きなんではなかろうか? ただ、アリクイはアジアでは動物園にしかおらん、というあたりおさえておかんとね。 で、面白がってちょっと検索かけたら、このメールは結構話題のシロモノらしい。そらあ、このタイトル見たら誰だってビックラこくわなあ。だってオオアリクイなんですぜ、アリクイ(また笑)。ゴルゴの話もちゃんとひっかかった。それで芋蔓式に出てきて、これまた爆笑したのが、かの大山倍達のお言葉。要約すると「蟻はあらゆる動物を倒す。その蟻をアリクイは食う。よってアリクイ最強」(笑)。水は王水より溶解力が強いんですか、そうですか。しかし人民解放軍が誇った(?)人海戦術に対する恐怖に近いなあ、こういう感覚。 それにしてもアリクイが時に人を襲う凶暴な動物だと仮定し、マレーシアの草原あたりにいたとしてもさすがにシンガポールにはおらんだろ、というあたりをも無視して東南アジアに生息と仮定しても、その猛獣を時に相手にせねばならない「危険な出稼ぎ」って一体なんだ? まさかアリクイと蟻塚を争うわけではあるまいし、ワシントン条約違反をやらかすにせよアリクイそのものはカネにならんだろうし、人里離れた芥子畑は遙かお山の彼方だし。謎は深まる。 |
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以下ネタバレありなので、他の公演にこれから行く方々はご注意下され。
ヒラリー・ハーン(vn)、イム・ヒョスン(p) イザイ 無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番 op.27-1 エネスコ ヴァイオリンソナタ第3番 op.25 「ルーマニア民俗様式の」 ミルシテイン パガニーニアーナ モーツァルト ヴァイオリンソナタ KV301 ベートーヴェン ヴァイオリンソナタ第3番 op.12-3 アンコール アルベニス タンゴ プロコフィエフ 3つのオレンジの恋よりマーチ ハーンのテクニックは常ながら完璧。ハーモニクスや微分音の音程、さすがにハーンでも少しは外すかな、と思いきや凄まじい安定感で、もはや人間業とは思えんぞ。ハーンが別格的存在であることを改めて思い知る、震撼すべき演奏だった。ただ、その超絶テクがストレート感動を呼ぶか、といえばそう単純でもない。その最たる例がエネスコで、この曲に多用されるいわゆるパルランド・ルバートによる揺らぎを不必要なくらい均質化するため、結果としてローカルな匂いを丹念につまみ出すことになってしまい、後期ドビュッシーの亜流のような響き程度までしか達成されなかったのが残念だ。 とはいえこれは伴奏者に起因する部分が多いため、ハーンだけに責任がある、などとは到底言えない。01と05、モーツァルト録音の相方ナタリー・シュウは無神経なフォルテを叩き込むケースが目立ち、音色への配慮がまるで足りない奏者というイメージがある。とはいえ05は、01よりは遙かにマシになっていたので今回はちょっと期待していたのだが、発券後に演奏者交替がアナウンスされ、そしてやって来たのが今回のイム・ヒョスン。彼女はシュウとは全く逆のベクトルながら、同様に音へのセンスが乏しいのだ。 なにせ音に芯というものがない。ピアニシモは単に弱く弾くだけ。それは彼女が基本的に上膊部の重みだけで演奏を展開するからだ。そのため、フォルテは音量が絶対的に不足している。これはクラスター的音形もあるエネスコ、ないしはベートーヴェンの特に第3楽章では致命的。フォルティシッシモですら、これはメゾフォルテだったっけ?、と思わせるほど、ダイナミクスの幅が絶望的なまでにない。モーツァルトでは、シュウとの録音より繊細な印象を与えはするのだが、どの曲目でも、この奏者とハーンの天と地ともいえる力量、そして立場の差ばかりが露わになる。頭の中を、数日前に聴いたボザールによるショスタコのトリオが甦った。ホープとメネセスは頑張っているのだけれど、一人高みの見物を決め込んでサロン音楽をやっているプレスラーが全てを台無しにしたあの演奏を。。。 一方、ピアノのいない無伴奏なイザイとミルシテインにはさしたる文句はなく、調子としては05オペラシティよりは遙かに良かったように思える。となればやはり、伴奏者に不満が募るのだなあ。それにしても改めて考えると、ヴァイオリニストにとってよき伴奏者を得ることは至難だ。アンスネスとフォークトのいるテツラフ、ルガンスキーやベレゾフスキーと共にあるレーピン、ブラレイにアンジェリッチと組めるカピュソン兄なんざは、本当に幸運な連中なんだなあ。 なお、エネスコ第2楽章を弾き終えた後、咳き込んだハーンは「ゴメンナサイ」と言って数分退場。帰ってきた時の慌てた、しかし舞台をドカドカ踏みならすわけにもいかずに披露したペンギン走りが微笑ましかった。ちなみに彼女は日本語のインテンシヴ・コースをわざわざ履修したくらいの語学ヲタク。アンコールでプロコを弾く前に「コレが最後デス」とかなんとか言ったのは、普通の外タレがやるチンケなサービス精神ではない。その成果の披露なのである!!、、、ということはあまり知られてないかもしれない。 ・ ・・・・ イザイ、エネスコ、ミルシテインは最近頻繁に演奏会にもかかるようになり、録音も増えてきた気のする曲群だが、このプロが発表された後、聴き直した録音のうち、記憶にあるものだけついでに以下に記す。 エネスコが、エネスコ+リパッティ(フィリップス)、コルシア(BMG)、カヴァコス(ECM)、カントロフ(ALM)。 イザイの無伴奏はクレーメル(ビクター=メロディア)、FPZ(EMI)、コルシア(Lyrinx)、シュミット(Arte Nova)、ツェートマイアー (ECM)、戸田弥生(Exton)。 ミルシテインはミルシテイン(BridgeおよびThe art of violinのDVD)、クレーメル(DGG)、庄司紗矢香(DGG)。 |
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鍵盤を叩きに叩く人種がいる。こういう手合いの音楽を聴いていると、録音ならともかく実演だと肉体的に辛くなってくる。音の塊を次々ぶつけられて頭痛がはじまり、抜けが悪いために空間に留まり続ける、鬱陶しい湿度にも似た音の分厚さに比喩ではなく息苦しくなる。幼いころ風邪をひいた時、口の中に綿を詰められているような感覚に襲われることがよくあり、今でも体が重いときにこの感覚が時に蘇ることがあるが、こういう演奏を聴くと、そのざらざらとした口中の感覚が再現して難渋する。従って、早く終われ、早く終われ〜〜、と念じることになる。
先日聴いたピアニストによる協奏曲、まさにこの典型例だった。こういうタイプですぐに思い出すのが、夭逝してしまったスルタノフ。彼のライヴは数度聴いたが、ピアノの弦を叩き切る豪快な打鍵は全く爽快とは逆ベクトルにあり、いずれもそういった息苦しさを覚えさせるものだった。個人的にはそういった生理的な相性の悪さがあるため、あまり評価していない演奏家なのだけれど、しかし彼の場合、それだけでは済まないものもあったのは事実。結局最後の来日になった公演で披露したリストのソナタは、こりゃ10年後の演奏は面白いかもな、と思わせた。 だが今回聴いた奴にそんな感情は一欠片も湧いてこないんだよなあ。7年ほど前のリサイタルでもアンコール始まる前に席を立ったのだけれど、今回も余りに食傷して前半で退散。いや、いろいろな人がおるものであります。 |
